「インドネシア」の漢字表記って知ってますか。
アメリカは米国。
イギリスは英国。
フランスは仏蘭西で仏国。
イタリアは伊太利亜で伊国。
ドイツ語は独逸で独国。
インドネシアは……、印度……、印国?
いや、それじゃあインド(India)だしな。というわけで
正解は「印度尼西亜」だそうです。
……なんか、暴走族の特攻服がパッと思い浮かんだのは
私だけでしょうか。
明朝体で「 印 度 尼 西 亜 」。
そうするとネシアは「尼」なんですね。「尼」国。
わたしも知りませんでした。
あ……あまこく? ではなく、 ”に” こく。
尼国(にこく)。
尼語(にご)。
日本語でネシア語を調べる辞書なら、日尼(にちに)辞書。
逆でも「にちに」ではなく、尼日(ににち)辞書。
漢字は一瞬見ただけで記号的に理解できるから
字面で見ると分かりやすいけど、
声に出すと分かりにくいものです。
私があちらに滞在中、
学校に行く時や、予備校に絵の指導に行く時に
かならずリュックにいれて毎日持ち歩いていたのが、
まず「電子辞書」(国語辞典、英和、和英、英英辞典が入ったもの)。
それに加えて、紙の辞書が2冊。
「日尼」と「尼日」です。
日本から持っていった 『現代インドネシア辞典』末永晃、関伊統 編 と 現地で購入した 『KAMUS STANDAR BAHASA JEPANG - INDONESIA』GORO TANIGUCHI |
この「電子辞書」、紙の「日尼」「尼日」の3つのセットを
毎日リュックに入れて持ち歩いていました。
ダイエットかっつーの。
辞書は、出国前に
結構な時間をかけて「何を持っていくか」を悩んだもののひとつ。
インドネシア語対応の電子辞書を店頭に見に行ったり、
アプリを使う為に、持ってなかったスマホを買おうかなと思ったり。
すごく悩んだけど、結局日本から持っていったネシア関連の辞書は
この小さな緑色の「尼日」一冊でした。
約2年居て、
「尼日」には本当にお世話になったけど、
紙とか、電子辞書とか、アプリとか、それこそ色々あるけれど
何がベストだったか、というのは
正直、未だによく分かんない。
調べるものというよりも、読み物的な要素がある「尼日」だったかな。 例文は載ってませんが、 関連用語が載ってて勉強になりました。 |
圧倒的に多かったんです。
でもそれは、この辞書の問題というのではなく、
ネットの辞書を使っても、そうだったので、
問題は別なところにあるように思います。
それは、
地域語の多さからくるものなのか
そもそも言語が体系化されていないからなのか……
どちらともだと思いますが、
毎日辞書は持ち歩いて毎日開いてたけど
「あってよかった!」っていう記憶はあまりないんですね、今思うと。
探しても、"載ってない"なんてことは
英語の辞書ではあり得ないことなのですが
ネシア語は本当によくありました。
でも、意外に困らないものです。
ネシア人というのは、
宗教的な考えから、
弱いものを救ったり、困っている人を助けたりするのが
当たり前に身体に染み付いているので
私が
分からないものに対してはとことん教えてくれるから。
辞書で学んだことも、最終的には
現地民の教えで全部上書きされちゃうんですよね。
だから、あんまり活躍したっていう記憶がないのかな。
この「尼日」は現地で買ったのですが デカイわ、重いわで…… 紙はコピー紙だから分厚いし、 印刷はネシアクオリティだしで とんでもない辞書でしたが、 日本人が編集しているので、必要な単語が載っていました。 あとは、現地クオリティの本なので、1000円で買えて安かった。 |
独特の索引を見ると、 確かに辞書の索引って特殊な技術だよな、 と思い知ります。 |
安くて、コピー紙の辞書ですが 書き込みできるのはメリット。 家で使う分にはよかったですね。 |
「日尼(日本語→ネシア語)」を現地で買うって、
なんか、逆じゃない? と思われるかもしれませんが
たぶん、そうではないのです。
インドネシア語が話せない最初のうちは、
まず、"尼語を知る” ことの方が最も必要なんです。
スーパーに行って売っているものが何なのか、
街の看板に書いてあるのは何なのか、
そういったことなので、まず「尼日」が必要なのです。
実際、わたしが逆の「日尼」を手に入れたのは
現地に行ってから2ヶ月くらい後だったように思います。
「遅いだろ」と思うかもしれませんが、
このくらい経って初めて、
「日尼」が必要になる瞬間がくるんです。
それは、自分のことを話す必要が出てくるようになってからなんですよね。
それまでは拙い英語でなんとか喋っていたけれど、
現地語を少しずつ覚えていって、
その中で友達ができて、
友達に、"私のことを知って欲しい"、そう思えた時に
初めて必要になるものなんです。
この辞書でいつも一生懸命言葉を探しながら
頑張ってSNSを返信していた
あの時を、思い出します。
5 件のコメント:
まずは相手の言葉を知ろうとする。次に自分を伝える必要が出てくるのですね。なるほど。
はい、そう思っています。
そして、新しい言葉を話そうとすることは
物事の考え方とか、言葉の選び方とか、
自分の性格ごと別のものとして作られていくような、そういう感覚を味わいました。
言葉によって自分自身を形成されているわけですね。このあたりの実際の話は、わけがわからなくなります。頭悪い私。笑。生活体験的な、非言語のままの処理=綺麗な色を見て感動したりするなんてことは幻想なのかもねえ。じつは言語化行程を踏んでいるのかもね。
コメントありがとうございます!
>非言語のままの処理=綺麗な色を見て感動したりするなんてことは幻想なのかもねえ。
shuさんのコメントを読んで、「感嘆詞」がこれにあたるのでは?と思いました。
綺麗なものを見た時に「綺麗〜!」ともちろん言いますが、「わ〜、綺麗〜!」って言ったりしますよね。感嘆詞ってきっとどの国にもあって(インドネシアにもあります)、この「わ〜」だけで、感動していることが自分にも周りにいる人間にも伝わるように思います。
赤ん坊は綺麗なものはまだ分からないかもしれませんが、面白いものを見た時に「キャッキャッ」となるのもこれに近いのではないかと。感嘆詞は言語なのか?という問題は難しくてわたしには分かりませんが、きっと言語よりも感情よりのものなのでは……と、思いました。
なるほど!。感嘆詞ですね。たしかに「きゃっきゃ」など音声化していて同じ文化圏(ひょっとして超えて)で、その価値を付合しますね!。感動も言語で自分たちの意識化して判断しているのか!。視覚言語なるものは怪しくなってきましたね。汗笑。
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