ネシア人は、分からないことを「分からない」と言ったり
出来ないことを「出来ない」ということが
相手にとって失礼だと考える文化があります。
そして、その意見が、結果「違う」ことを指摘すると
非常に恥を感じたり、屈辱的であるという態度を見せます。
特に、人前である場合、それは非常に顕著です。
前に、私が携帯電話を見ながら
「(残高の)チャージしないとな…」
とつぶやいた所
「ここでできるよ」
と友達が連れて行ってくれた先にあったのはコンセントの差し込み口。
彼女は(充電の)チャージと勘違いをしていたようで
私は「え???? あ、ごめん、そういう意味じゃなくて、残高のチャージ。」
と言うと、彼女はものすっごい恥ずかしそうにして
顔を真っ赤にしながら
「ごめん!ごめん!ごめん!わーーーー!恥ずかしい!!!!!」
と、そればっかり言っていました。
別に彼女が恥ずかしがることなんて何1つないのですが
ネシア人にとって、「勘違い」や「間違い」というのはものすごい恥ずかしいことだというのは
後になって分かることです。
その時の私は、何故彼女がこんなに恥ずかしがっているのかが分からず
でもとにかく本当に恥ずかしそうにするのが可愛くて
「ねえ、チャージしたいんだけど」
と冗談で何度もからかっていました。
この場合は、ただの勘違いでしたが
分からない・知らない場合
そう素直に言えないのは
相手を思ってのものであって
決して見栄を張っていたり、騙そうとしている訳ではないように思います。
それさえ理解していれば、惑わされることもなくなります。
道ばたで人に道を聞いた時に
どんな人でも必ず道を教えてくれますが
分かってなくてもとりあえず適当に答えるので
それを信じて突き進むと、まず目的地にはつけません。
「あ、こいつ分かってないな」
と思うと、とりあえず説明だけ聞いてから
別の場所で他の人に聞いて
「あ、この人は確信を持って場所を分かっているな」
と感じた人に行き当たるまで色んな人に聞きます。
この、
「こいつ、分かってないな」
の見分け方は非常に簡単で
説明の前にフリーズが入ります。
このフリーズは
「道聞かれたけど分かんないなー………」
というフリーズです。
これに
「インドネシア人は道を聞いても適当に答える」
という結果を導きだすのは非常に簡単ですが
私には何かネシア人をそうさせるものがあるのだと思い
辛抱づよく、今まで観察をしてきました。
そして、今思うのは
彼らが
「分かりません」
といえば、道を聞いた私が路頭に迷うのがかわいそうだと考えて
でたらめでもいいからなにがしかの答えを提示しようと試みているのだ。
という風に彼らは思っているのだな、
ということなのです。
とはいえ、
私が1年と数ヶ月この地に住んで来て
もうひたすらに人々を観察してきましたが
ネシア人は問題解決能力は極めて低い民族であると思います。
問題にぶつかると、まずフリーズ
そして、放置
もしくは
何か別のもの、それも全く別のもので代用しようと考えたりします。
ある例を2つ挙げます。
たとえば私が市場に行って、気に入った洋服を見つけたとします。
私は
Lサイズが欲しいのに、
Sサイズしか無い場合、
もちろん ”Lサイズがあるかどうか" を店員に尋ねます。
そして、Sサイズしかなかった場合、
このシチュエーションではこうなります。
私「これのLサイズあります?」
店員「ありますよ」
服を探す店員
そして無いことに気がつく
周りに他の店員がいれば、Lサイズがあるかどうかを尋ねることもあります
尋ねなかった場合、他の店員はそれをただじっと見ています
他に店員がおらず、1人の場合はしばらくフリーズします
この時、別の客が服を買おうとした場合、私はひとまず放置されます
私「あの……無いですか?」
店員「ありますよ」
といって、全然柄や色の違うLサイズを出してきます。
私「これ、デザインが違うんですけど。このデザインのLが欲しいんです」
店員フリーズ
店員「…でも、これ、いいですよ。」
私「私は、このデザインのものが欲しいんです。Lサイズは無いんですね?」
店員「無いですね」
ここまでやらないと、Lサイズが無いことは分からない。
下手すると、ありますよっていって
全然違う柄の服をそのまま袋に詰めようとする店員さえいる。
しかも値段も全然違ったりする。
これは、私が思うに
騙そうとしてやっているわけではなく
どうして代用品では駄目なのかが分かってないように思えます。
私が欲しいのがハイビスカスの柄の赤いシャツだとして
代用品がバラの柄の緑のシャツだとすると
「花柄」
という共通点があれば、それは代用品として充分な条件であるのです。
ついこの間のコンビニでの例も挙げます。
私は、サラダとパンを買った時のことです。
サラダの値段がどうもレジに登録されていなかったようで
値段が分からず、コンピュータで値段を調べていました。
その間には一言も
「レジに値段が登録されていなかったので今調べます。少々お待ちください」
のような断りを入れてくることは、経験として1度として無い。
この国に来たばかりのうちは何をやっているのか分からず
とはいえインドネシア語が喋れる訳でもなかったので
とにかく観察していたのですが、
今では彼らがなんでこんなに待たせるのかが分かります。
大抵は、レジの起動を待っていたり
おつりを探していることが多いのですが
それらを一切説明しないので、客はひたすら待たされるだけなのです。
とりあえず、値段は見つかったらしいのですが
どうやら、おつりが足らないようなのです。
インドネシアはお金の単位が非常に細かいため
おつりが足りないということはほぼ毎日数回発生する出来事なので
驚きはしません。
しかし、この店員はこの時1人だったために
おつりが無い時の問題解決方法を、他の店員に尋ねることができない状態のため
とりあえず今準備できるだけのお金をレジから引き出した後
しばらくフリーズをし
そして、レジの下でそのままケータイをいじり始めました。
恐らく、他の店員にどうすればいいのかをSMSで尋ねていたのだと思います。
その時私が買ったのは
Rp.17.000のサラダと
Rp.5.5000のパンでした。
私はRp.50.000を出したので
おつりは当然Rp.27.500です。
私がレジに商品を持っていってから
3分以上がすでに経過していました。
最初の「Apa lagi?(以上でよろしいですか?/他にご入用は御座いますか?)」以降
一切、事情説明を含め、言葉を発しません。
ただし私は経験から、状況をすべて理解したので
「……おつり、無いんですね?」
ときくと、
「そうなんです。」
といって、とりあえず今あるRp.22.000を私に渡して来たました。
私は本当は小銭が欲しかったので大きいお金を出したのですが
こういう事情なのと、ちょうど細かいお金もあったので
「Rp.10.000あります?」
といって、プラスでRp.2.500を支払い、差額のRp.10.000を受け取ろうとした。
店員は計算が全く出来ていなかったので、
勘違いをし、私にRp.1.000を渡そうとしたので
「違います、Rp.10.000です」
というと、バツが悪そうにRp.10.000を渡して来た店員からお金を受け取り、
なんとか正しいおつりを受け取りました。
長くなりましたが、こういうことは本当によくあることなのです。
・知らない・分からないと言えない
・問題解決能力が無い
・出来ないことは放置して後回しにする
・計算が極端に出来ない
この4つが、商いにおける致命的なインドネシアの特徴です。
国民全体でこの能力が低いのです。
ちょっと前に
国際協力の実施主体から見たインドネシアの初等中等教育行政の問題点と改善策
―世界銀行提案との現地での経験から―
という広島大学の助教授が書いたレポートを読んだのですが
このようなことが書かれていました。(以下抜粋)
世界銀行の委託によって行われた S o m e r s e t ( 1 9 9 4 )の 調 査 は,全国の4つの州で無作為に抽出した12の小学校で調査を行い、小学 校5年生と6年生の算数の能力が極めて低い水準 にあることを示したものである。
0.55,0.8及び0.14の3つの数を大きい順に並べるという問題に正解できた児童は,全体の12%に過ぎなかった。誤答の多く が0.55 > 0.14 > 0.8としており,これは少数点の意味が理解されていないことを示している。また、 地域によって差はあるものの、7%~12%の教師が児童と同様の基礎的な誤りをおかした。
私も計算は相当に弱いので
日本の義務教育をうけている中の底辺だとしても
この底辺の私から見ても、ネシアの数学の能力の低さは充分に感じられます。
なぜ、彼らが計算できないのかは
それを教える教員ができないからで、
その教育を受けて来ている親も当然できないのです。
数学に限らず、
大人たちは分からないといえないのです。
そして学ぶ子どもたちも「理解できていない」ということを
大人に意思表示できないのです。
そして彼らには学ぶための自国語で出版された本がないのです。
大抵は外国から輸入された翻訳本、
それも悪ければ大きく誤訳された本を使用することになるのです。
彼らにとってのあらゆる情報源は
人の話、そしてインターネットからの情報という非常に不確定な情報なのです。
そして、それはある、たった1つの意見だけで、事を「断定」してしまうので
意見のパーセンテージだったり
少数意見を拾い上げたりする事がほとんどないのです。
なぜなら、彼らにとって
「周りと同じ」であるということは、
私には理解しがたいほどに極めて、極めて重要なファクターだからです。
そして、学の深い人間は
「理論」
を最重要視します。
西洋の人間が作った、「理論」に全てをあてはめて
それを「正しいこと」の指標にしようとするのです。
デザインも同じ事です。
彼らは学歴を非常に重視するので
「友達」よりも「学部を卒業した助手」、
「助手」よりも「修士号を取得した先生」、
「修士号」よりも「博士号を取得した先生」
が、かれらにとっての絶対的な学歴のヒエラルキーです。
ここに、個々のキャラクターや思考、言動などの要素は
彼らにとってほとんど関係の無い事なのです。
私には決してこれが良いことだとは思えません。
自分で考える能力が完全に不足しているのです。
この世には「説明できないけれど素晴らしいと感じる事」がたくさんあるからです。
しかしそれらが「理論」に当てはまっていなければ
これらが評価されることはありません。
それが、
私が外国人としての客観的に見るネシアと
内側に入ってみて見えて来た事を総合して私が思う所なのです。
少し話しが広がりすぎましたが
1年間の実生活による調査で考えとがまとまってきたので
少しずつ拙い文章ながらも批判的な文章を書いていきたいと思ってます。