2014年1月28日火曜日

100,000年後の安全をデザインの視点で観てみる


放射能処理施設に関するドキュメンタリー映画「100,000年後の安全」が
2月10日まで無料で視聴できるってことで観てみた。

映画『100,000年後の安全』


私はドキュメンタリー映画ってやつがあんまり好きじゃない。
ドキュメンタリーっていうのは
「事実の記録に基づく作品」のことをいうらしいのですが
撮影したり、編集したりしてる時点で
それはもうドキュメンタリーでもなんでもなくね?
っつーか事実って一体なんやねん。
って思っちゃっうのですが
必要か不必要かと言われれば、記録として必要だとは思う。

でも、そいじゃぁ「記録」って一体なんやねん。

便宜上、他の創作映画と混ぜないように
「ドキュメンタリー映画」って言ってるだけかもしれないけど
それでも、あんま好きじゃない。

ま、とりあず今回はそんな話がしたいんじゃなくて
デザインを勉強してきた身としては
「100,000年後の安全」を観ていて、私的にすごく興味のそそられることがあった。



この映画は、
フィンランドにある、核燃料処理施設「オンカロ」についての話で
オンカロの関係者や、核燃料処理における法律に関わる人などのインタビューなんだけども

その中で

「約100年後に完全封鎖されるオンカロを、どうやって未来に残すか」

という話題の中で

・興味を持たれて掘り起こされたら危ないので、人々に完全に記憶から忘れ去られるように処理する
(まるで何もなかったかのように、もとあった景色に戻す)

・ずっと先の世代まで、警告を続ける



という二つの案があったんですけど

後者の「警告」は
世代ごとに、次の世代に分かるような形で常にアップデートしていくのは難しい。
途中で一度人類が何かしらの理由で(人類滅亡とか、氷河期とか、戦争とか)
アップデートできなくなる可能性が充分あるから。

そうすると、アップデート無しに、
言語も文明も違うであろう10万年先までの後世にどのようにして残していくか。
っていうのが大切になるわけで。

というのは、10万年たたないと、使用済み核燃料は無害にならないそうなので
10万年よりも前に人類がこれを掘り起こしたりしないようにするために
どういった警告をするのが有効か?という話。


その中で二つの案がでたんですね。

1、マーカー(言語に頼らないサインのような表示を残す)
2、本能的に拒否反応をしめすような場所にする(立ち入りたくないと思わせる)

っていう2つ。


マーカーっていうのが、いわゆるサインのようなもんですね。

こーゆうね。
私たちが日常的に使う、道路標識とか道案内の看板なんていうものは
10万年先まで残るとはとても考えられないので
石とか鉱物に、なるべく普遍的な表現で彫って残すっていうやり方が
今のところ有効だと考えられているそう。
こういう標識のような
石で出来た簡易のモニュメント。
もっと詳しく説明が書いてあるキオスク。

10万年先は、今よりももっとテクノロジーが発展しているかもしれないし
また、原始人のような生活をしているかもしれないから
データのようなものは記録物としては不安定だということ。

なんか、面白いっすよね。
こんだけテクノロジーが発達したのに
後世に「誰もが分かる普遍的な形で警告」を残す方法が
石器時代と全く変わらないわけですから。

今使われてる言語なんて、役にたつかどうか分かんない。


マークだって、そう。
皆知ってる放射能マーク。


「知識」があるから"放射能"だ
って分かる訳で、
その知識がなければ、恐らくなんもわかんないわけです。


もちろん、こういう標識とかサインっていうのは
そりゃあもうエラくて頭のいい人たちが考えてるわけで
(ちなみに放射能マークは1946年にカリフォルニア大学の研究室が考案したそう)
なるべくして、普遍的に色んな人種の人が共通の認識でこれを危険だと
感じられるかどうかってことで、これになったのは分かるんですけど。
黄色と黒の配色が本能的にこれを危険だと感じるのもわかるんですけど。

10万年後に、色を塗料かなにかで残せるかって言ったら
まぁ残せないだろうし
この記号が「イコール 放射能もしくは危険を感じるもの」って分かってもらえるのも
無理だと思う。

マーカー・サインの類いは、洗練されすぎちゃうと
長期的には「普遍なもの」にはならないそうです。
それきくと、今まで習って来たデザインって何だったんだろ
って色々ふっとびます。




2、の本能的に拒否反応をしめすような場所にする
っていうのもなかなか
面白い案だった。


http://ratical.org/radiation/IntoEternity/MichaelMadsen.html

・・・こんなんすっげぇ好奇心そそられちゃうけどね。
私なら絶対見てみたくなっちゃうなぁ。

上は、ランドスケープを「恐怖・危険性」を与えるものと想定しているわけですが
エドヴァルド・ムンクの「叫び」も
ネガティブな感情を率直に示しているっていうことで
候補に上がってるそうです。


ともかく
「危険性」を普遍的に伝えられることは
翻せば
高い「安全性」に繋がる訳で
なるほどな〜と思う訳です。



私がもし超未来に生きていて
この場所を発見したとして、
「この場所を掘り起こさない」ようにするために有効な手段は
この中では、ムンクが一番だと思う。

でも私は今までアートが「普遍的なもの」とは考えた事がなかったので
なんだか色々揺れてます。



大学の授業で
「10万年先の人類分かる形で"危険"を知らせるデザインを考えろ」
とかあったら、面白いのに。


先生が評価に困っちゃうけど。


「後世に残したいデザイン」
はたくさんあるけど
「後世に残したくないモノのためのデザイン」
っていうのは世界の著名デザイナーが束になっても難しいだろうなぁ。


面白かったです。



2014年1月23日木曜日

咲き織



あたしは、おばさんが好きだ。

なんで好きなのか分からんが、おばさんが好きだ。
ちなみに、おじさんも好きだ。


世間一般になぜおじさんとおばさんが嫌われる存在なのかが私にはよく分からないのと同じく
私がなぜおじさんとおばさんが好きなのかがよく分からない。

私の人生は、色んなおじさんとおばさんに支えられている気がしてならない。
色んな素敵すぎるおじさんとおばさんに出会って、
有り難い事に交流させてもらっている。



その中で、今日は
とってもお世話になっているおばさんの一人(おばさんとか言ってすいません)
友達のお母さん、咲き織 順子さんが、
今度東京ドームの「世界らん展」でワークショップをやるらしい。

この方は織物作家で、古い着物を裂いて折る
咲き織り(通称は裂き織りとよばれるのだが、順子さんはこう呼ぶ)の先生。


私は順子さんも好きだし、咲き織りも好きだし
花も好きなのだが
行けそうにないので、書いておく。



咲き織教室(咲き織順子さんの教室)
http://sakiori-junko.com/

世界らん展日本大賞2014

世界らん展
http://www.jgpweb.com/

世界らん展ワークショップスケジュール

(順子さんのワークショップは2月17日にやるそうです。
"らんのランチョンマット"。らんのランチョンマット。2回言ってみた。)
http://www.jgpweb.com/highlight/interaction/workshopschedule.php


毎年4月頃には、咲き織展という展示会を横浜で行っていて
私は高校生の頃からほぼ毎年遊びに行かせてもらっている。

去年もインドネシアに居て行けなかったが、今年も行けない。


「人生の何かの糧になるかもしれないから、お教室にいらっしゃいよ。」
という温かいお誘いを頂いて、
順子さんの大変なご好意で保土ヶ谷(横浜の横)のお教室に
一年間通わせてもらっていたのだが
織物、面白いっす。


平均年齢は私から見たら全然高めで
私の次に若い人となると私よりもひとまわりは上の方で
さらに次に若い人となると、私よりもふたまわりは上の方
と、なる。

インドネシアに来る前には
生徒さんが送別会まで開いてくださって、
おじさん・おばさんに飲みに連れて行ってもらう事はあっても
平均年齢60歳超えの飲み会はなかなかない。

私としては、ここまで心地よい環境はそうそうなくて楽しかったです。

でも皆さんが優しくしてくれたおかげで、私の一年間の教室は
とても楽しく過ごせました。


咲き織って
全然思ってもない物ができるんですよね。

もちろん、先生はこれがコントロールできるわけなんですけど。
私はまだまだ全然出来ないんですよね。

織物と言えばもちろん縦糸と横糸が合わさって色が出てくる訳ですが
色の計算が得意な私でも
糸じゃなく布、つまり線ではなく面を使う事で、
その計算がいい意味で全然狂っちゃうんですよ。
一年間で多分6本くらい布織りましたけど
最後までこの計算が合う事はなかったですね。


すげー考えて経(縦)糸張って
すげー考えて布選んでも
あれ、なんだこれ っていうものが出来たり

今日は心を無にして、ひたすら織り続けたいからと
何も考えずに余った経糸を色の組み合わせ完全無視で織ったりすると
あれ、なんだこれ すげーいいじゃん
っていうのが出来る。


順子さんが元々服飾のデザイナーをやっていたこともあって
織った布は、洋服に仕立てるのです。
で、仕上げる服によって、布の詰め方を変えたりするんですよ。

そうすると、
前回と同じ布、同じ縦糸使ってるのに
こんなに柔らかさとかテクスチャー変わるんだ
って思ったり
毎回毎回、何かしら新しい発見があって面白いんですよ。


言ってみれば、
いわゆる
「おばさんの趣味教室」
じゃなくて
もっとクリエイティブなものを生徒さんが順子さんの下に作っていて
私は、すごく楽しかった。

なんていうか
この教室で1年間勉強させて頂いて思ったのは
咲き織って皆平等だなぁ
と思いました。

26の私と
50、60、70、80のおばさんたちが一緒の教室でやっていて
皆それぞれ違う色彩センス、ファッションセンスを持っていて
価値観も全然違うはずなのに
毎回他の生徒さんが仕上げる布を見る度に
「そーか、この組み合わせかっちょいーな」
とか思う訳ですよ。

普通だったらちょっと考えられないですよね。
20代の人が80代の人の価値観を尊敬できるっていうのは。
でも、それが成立するのが面白い。

基本的に織りは織物と自分との一対一だけど
順子さんが
「ここにこの布入れてみたら」
って言われて
心の中で
「えっ、この色?」
と思うんだけど、やってみると、
織物のパッと印象が良くなるんですよね。

あれがすごいと思う。
さすが先生としか言えない。

私がお教室に通わせてもらっていたときに織った布の写真が
ちょっとあったので
アップップ


これは最終的にベストにしたんだったかな。
たしか着物の裏地を使ったような気がします。
布自体は薄いけど固くかったんだけど
出来上がったらすごい柔らかくなった。
これは緯糸(よこいと)の糸をカラフルにしたやつ。
ひとつ上の写真が経糸をカラフルにしたやつんだけど
全然印象違う

これはまさに布を入れているところ。
経糸の違いで全然色がかわってるのが面白い。


咲き織順子先生の
咲き織教室
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
〒240-0022 神奈川県横浜市保土ケ谷区西久保町83
TEL/FAX 045−333−2102

JR保土ヶ谷駅西口より徒歩6分
相鉄線 天王町駅より徒歩6分
時間
AM10:00〜PM3:00

http://sakiori-junko.com/



facebookを辞めました





5年前からずっとやっていたfacebookをやめました。



思い出が5年分つまったfacebookをやめるのは
ちょっと勇気がいった。


ほんとにやめたばかりなので、
スッキリした開放的な気持ちと
5年間の思い出をボタンひとつで一瞬にして消し去る悲しさとで
なんか、文字を書きたい気分なのです。




最近はLINEの普及もあって、facebookの人気はいまいち伸びていないような気がしますが
基本的にスマートフォンを持っていないと使う事ができないLINEは
ガラケー派の私には使う事ができず、
facebookを娯楽としても、仕事の連絡としてもほぼ毎日利用していました。


私がfacebookを始めた2009年の3月には
日本の友達は誰もやっていなくて、facebookと言っても通じなかったくらいです。
SNSはmixiが落ち込んできていたくらいかな。
今、誰もが知っているfacebookが、
たかだか5年前に知っている人がいなかったなんてなんか不思議です。
今じゃ、私の親父(60歳)でさえやっているというのに。


基本的に実名での利用を推奨しているfacebookは
自分のプライバシーを守ろうとする日本では流行らないと言われていたそうです。
そんな米facebookが日本語版のfacebookを公開したのが2008年5月19日。
私が始めたのが2009年の3月。
日本で突然流行り始めたのが2010年の10~12月頃だそうです。



私が始めたきっかけは、
大学のプロジェクトで学生20人ほどでインドネシアに行きワークショップをやったんですけど
その時に、インドネシアっていうのはfacbeook利用者数において
世界で圧倒的ナンバーワンだったんですね。
なので、facebookに登録して連絡を取り合おうということになり
そのときのプロジェクトのほとんどの日本メンバーがfacebookを始めました。

そのときは、私たちの身の回りにfacebookをやっている人も居なければ
解説しているサイトもほとんどなく
やり方がよく分からなかったんです。
今はあたりまえになっているタグ機能も、シェアも当時としては画期的なものでまだ珍しかったんです。
逆にいえば、まだ全然発展していなかった日本のfacebookというのは
全くもって使い方が不明瞭なものでした。
そのうち私たち日本チームは、私生活の忙しさに追われて
facebookを使いこなす事もできず
だんだんfacebookをやらなくなってきたんですね。
私も例に漏れず、日本で爆発的に普及し始めた2010年の年末まで
約1年くらいログインせずに放置していました。


それから、facebookが流行り始め
私も、他のメンバーも
前から使っていたアカウントを復活させて
皆と同じようにfacebookをコンスタントに使い始めるようになったんですね。


もともと、
「遠い地インドネシアのメンバーと、ずっと繋がっていたい」
という、すごく小規模のつながりでやっていたうちは、すごくよかった。
インドネシアという遠い土地の出来事がいつも写真で確認できて
それはすごく不思議で魅力的な体験だったんです。
「髪の毛切ったんだー!」とか、
そんなひどく日常的な外国の私生活が知れるなんて
本当に面白かったんですよ。


外国だけじゃなくて、
ずっと連絡を取っていなかった人と繋がれたりだとか
実家に帰ってしまった友達の近状を見る事が出来るだとか
本当に、純粋にfacebookが提供したいサービスの形そのままに利用していたんです。



じゃあ、何故やめたのか。


ま、疲れました。


facebookをやっているひとで、よく聞くのが
「あんまり仲良く無い人から申請が来たけど
断ると雰囲気悪くなるから申請許可するしかない」とか聞きますが
私の場合、これは当てはまらなかったです。
コミュニティを絞りたかったので、特に仲の良くない人からの申請は
私は全部拒否してました。
それから知らない人からの申請は絶対に許可しないとか。
その辺をやってたことで、特にトラブルもなく
日本に居る間は楽しく利用していたんですけど。
twitterもmixiも1ヶ月くらいやってやめたことのある私ですが
この辺の調節がきくのがfacebookのいいところで、細かく設定することで
自分のニーズにあった使い方が出来てたんですね。



それがインドネシアに来てから難しくなった。
一度会って、喋った人からは必ず申請がくる。
外国という土地に住み始めて、
受け入れてくれる現地の子を、嬉しく思わないはずがない。
だから本当に話した事のある子は許可してたんです。


でも、ネシアで新しい人と喋るっていうのは
毎日毎日起きる事なので、毎日のようにどんどん友達リストが増えて行く。
そして、その「一度しか会った事の無い人」が
次に会ったときに、私の近状を知っているっていうのが
どんどん積み重なって、プライバシーが侵害されてくる。
日本のように他人のプライバシーを守ろうという感覚が全くないので
なんとなく一緒に撮ったなっていう写真も、
いつの間にかアップされて、タグ付けされて、私の知らない人からコメントが残されて行く。
そうすると、だんだん監視されているような気になってきて
苦痛になってしまいました。


いつ、どこで、だれと何をしていたかっていう5W1Hが
基本的には友達リストに入っている人全員に知られてしまうんですね。

今回、
「うわーこの人怖いから1回私の個人ページの規制かけよう!」
っていうプライバシーが犯される危険を感じる出来事があって、
規制をかけたのですが
共通の友達のページとかで簡単に見られちゃうんですよ。
なので、公開範囲の変更とかもしてみたんですけど
完全に非公開にするのは無理だったので
思い切ってこれを機にやめることにしました。



インドネシアに来てから何度か
facebookをやめようって思うきっかけがあったのですが
今までやめられなかった理由が
写真とか、コメントとかっていうのが
facebook上に5年分積み重なっている訳ですよ。
5年分っていったら結構なものです。
写真は1000枚近くあったり友達の数は100人も200人もいるわけですから。
そんなに思い切ってできなかったんですね。
私にとって一番大切なのが、「メッセージ」っていう機能で
いわゆるメールボックスなのですが
手紙が好きな私は、電子文章も同じように大切にしていて
それがどうしても切るにきれない大きな理由でもありました。

でも、「一般アカウント設定」のと「facebookデータをダウンロード」から
データが保存できることを知りまして
それを利用して、メッセージと写真の保存をしてから
アカウントの利用解除に踏み切りました。

メッセージはhtm形式で保存されました。
テキスト一人一人テキスト保存するのはあまりにも手間だなぁと思っていたので
良かった。

facebookについてなんか長々と書いちゃったんですが
それだけ私には大事な「思いで」だったんですよね。
多分、日本で使い続けていれば、こういうやめ方はしなかっただろうなと思います。

秘匿性のある日本人が
シェアすることが大好きなインドネシアでfacebookを上手に使うっていうのは
難しかったかな。



日本って、なんでわざわざ独自の携帯電話システムもってるの?
海外行くとき汎用性がなくてホント困るんだけど。値段高いし。
と今までずーっとイライラと
このプライバシー問題に、繋がって来る気がして
日本独自の携帯電話システムは、国民性に合っているのかもしれないと思うのが
外国・インドネシアのメールシステムを使っていて思いますが
これはまた今度書こうと思います。



まだやめたばかりですが
仕事のメールのためにfacebook開ける度に
お知らせのチェックを確認したり、友達申請のリスト見て
確認したり許可したりする手間が無くなったので
気持ち的にはすごくスッキリしています。


そもそも「情報が多過ぎて見ていて疲れる」という理由でテレビも持っていない私には、結局これが生活・性格にあっていると思う。





facebook、5年間ありがと〜!
あなたで遊んだ日々は楽しかったです。


2014年1月21日火曜日

写真を撮る人

ネシア人は、自分たちの写真を撮るのが本当に大好き。
スーパーナルシスト。

もーーどこでもとにかく撮ってる。

日本人も結構撮るとは思うのだが
インドネシア人っていうのは、すっごいポーズ決めて撮るのが特徴的。
こっちが見てて恥ずかしくなるくらい
自分のポーズを皆が皆持ってる。
そして全然格好ついてない。
なんか全体的に古い。


いや、いいのだけど。
日本のプリクラ文化も言ってみれば同じようなものなんだが
公の場でこれをするのと、箱の中でするのとでは
やはり違うもの。

こっちが見たくなくてもどうしても視界に入るから。


私がイラついてるのは
観光地でこれをやられること。
もう本当に、ボロブドゥールに行った時は目に余る物がありました。


場所に着くなり写真を撮って
それを見ながらあるいて、
良い場所があったらまたそこで撮って、歩く。
その繰り返し。

つまり、ボロブドゥール見てない。

「見てないなら帰ってくれよ!泣」
と、叫びたい。

自分を写真撮るだけに来たようなもんで
あとは、その辺でぼ〜っとしながら撮った写真を加工したり
そのままアップロードしたりして
それが終わると帰るのだ。

写真の楽しみ方はひとそれぞれだから
私があーだこーだ言える事ではないのだけれど
あまりにもあちこちで撮っていて、
その度に遮らないように待ってあげなくてはいけないのだ。
それが本当に嫌。
しかも大抵長い。
観光なり、鑑賞なりの邪魔を本当にコンスタントにされるので
マジでムカつくのである。
写真をとって
歩きながら鑑賞
また写真を撮る。

「 マ ジ で 帰 れ !!」

と、心が狭いので
だんだんとイライラしてきてどーしようもなくなるので
最近は、イライラしなくなるいい手はないかなと探っていたところ
写真を撮ってる人をさらに撮る事で
このイライラを沈めようと頑張っている。

どうせ待たなくちゃいけなくて
なんか変なポージングを見てないといけないなら
その時間にうちも撮ってやろうということなのです。


あれです、
昔日本人が
写真を撮られると魂が抜ける
って信じていたのと同じように
写真を撮る事で、
このイライラを写真に封印しようという計画なのです。

これがなかなか効いている。


アメリカ行くと、美術館でよく見るのが
作品のキャプション(作品について説明してある短い文章)ばかりを見ていて
作品全然見てない人ばっかり。
キャプションを1分かけて読んで、
作品は5秒しか見ない人が多い。
「作品見ろよ!泣」

と思うが、
これも個人の自由なので私がどーこーいえることではないが
心の中ではそう思っている。
これは鑑賞の邪魔になってるわけじゃないから別にいいのだけど。


ネシア人は共有するのが大好きで
そこに行って、その場の空気とか、本物を見ることに
価値観を置いてないような気がする。
そこに行ったよっていう、証拠・記録としての写真を
共有するためだけに撮る。

動物園に行っても、しょっぱなからレンズを通してしか動物を見てないし
写真撮り終わったら次の動物に行く。
そういうのが、どうしてもイラついてしまうのです。

・・・いいんだけどさ!!(怒)
写真を撮るのが趣味な人は別にいいんだけど
あまりも大多数がそうだから、目に余るんだよ!!ぐっ

写真撮ってるせいで近くで見たい物が見れない時だけは
本当に腹たつ!!

キノコ専門レストランに行ったとき
行列を作って皆キノコと写真撮ってた。
私はキノコが見たいのに、写真に写っちゃうから
間近で見れないのだ。

・・・その家族写真、意味あるの!?

ムカー!!

2014年1月18日土曜日

南バンドゥン旅行記


Kawah Putih に行った時の写真がまだ結構残ってたのでアップします。

この前の写真でもちょっと出ましたが
今回私と友達を車で連れて行ってくれたのがこのメンバー。

左から
アリー ジワ ウパイさん。

ジワだけが、唯一仲のよい友達で
アリーは2回しかあったことなくて
ウパイさんは今回初めて知り合った。
そんな仲で旅行に行くのはインドネシアでは珍しくない。
ま、この旅行で結局皆と仲良くなれたんだけど。


この前書いた Kawah Putih ですが、行くまでの道の渋滞が酷かったけど
山に上り始めた瞬間に、パッと景色が変わりました。
東京から山梨に出るような感じに似てる。

このジャングル感。
木はやはり良い
バンドンのダウンタウンのクッソ汚い空気じゃない
綺麗な空気を久しぶりに吸いました。
プハー!
Kawah Putih の後には
別の湖である Situ Patengan に行って、
そこで1時間くらい原っぱの上でお昼ねしました。

寝転がると
視界に雲しか入らない。
日本では、田舎に行ってもそういう場所は少ないと思う。

ネシア人は皆朝早いし強いので
お昼寝は皆します。

原っぱでのお昼ねは格別ですな。
この日はネシア人でない私も朝早かったのでぐっすりお休みました。


そしたら雨が降ってきて、小屋に一時避難。
ござを広げると同時に、ネコが私の座ろうとしていた場所を陣取ったので
このくそと思い
お菓子を頭に乗っけてやるも微動だにしない。

こ…子憎たらしい
なんだこいつはと思い、
サンダルを乗せると、なんだか寿司のようだ。

なんか置物のよう


そこから雨が少し弱まってきたので車に乗り込み
最後の目的地、温泉へ。

この頃には土砂降りで
大変なことになっていた。
普通に寒い。


この写真は帰る直前に雨がやんだところなのですが
実際は山の雨なのですごく冷たくて、まじ寒かったです。
この旅行の後、結局皆風邪ひいた。

皆で雨が止むのを待ってみたけど一向に止む気配がないので
思い切って持って来た半袖に着替えて
温泉に飛び込んだ。
傘を差しながらの入浴。
なかなかオツなもんです。

みんなでインスタントの砂糖たっぷり生姜ティーを飲み
借りたバンガローの中で暖をとる。

雨が止んできたので帰路につく。

この時5時すぎだったけど
7時までは、渋滞が酷いので夕飯を食べて時間を潰す。
インドネシアの渋滞というのは本当に酷くて
日常的に、車が全然進まない渋滞がよく起こる。

レストランの前に広がる苺畑。
正確には畑ではないのだけど。
一個一個の苗がポット(正確にはビニール袋)に分けられていて
土に植わっていない。
なんでなんだろう。土が悪いけど、土地はあるぜ。って事なんだろうか。
でも、この地で育つってことは、土も適してるんじゃないのか。
それとも、適度に育ったところを袋のまま売る用なのか
……わからない。


夕飯は皆で沢山いろんなものを頼んだ。
ご飯はNasi Merah。
まぁ、お赤飯っていうところですね。


ここのテンペ(大豆を発酵させた食べ物。揚げたり煮たりする)が、色んな野菜が入ってて
すごく美味しかった。
インドネシアの食事っていうのは
基本的にものすごく量が少ないっていうのと
食事中に会話するのをあまり良しとしない文化なので
あんまり楽しくないんですよ。
でもジワはいつも何か話しかけてくれるので
ジワがいると食事は楽しい。

それに
皆で一緒のものを食べるって言うのはすごく好き。
日本だと、飲みに出かけると普通は皆で色々注文して
取り分けて食べるから普通の事なんですけど
インドネシアは飲み会らしい飲み会っていうのがほぼ無くて
あっても、各々でそれぞれの注文をとることのほうが圧倒的に多いので
そんなに機会は多くないんですよね。

とにかく寒かったけど
楽しかったです。


2014年1月16日木曜日

チップと賄賂とFCとマルチ




部屋とYシャツと私 みたいな感じで。
チップと賄賂とFC(フランチャイズ)とマルチ。


心付けの意味のチップ(TIP)って、日本人にはちょっと難しいシステム。
外国に行って自分が払う側になってもスマートに渡せないし
日本で、これを貰う側になっても困る。



予備校生の時に、とんかつ屋で働いていた時に
お客さんにレジで会計の後、
無言でチップを
「ん!」
って差し出された事があって
「え、いやいや、いやいやいやいや!頂けません」
って何度も断って、お互い譲らないまま、
最後は持って帰ってもらったことがあるんですけど。
あれって、もらっても困るし
もらわないとお互いなんかスッキリしないんですよね。笑
どうしたらいいんだ…


チップが当たり前の国の人たちからすると、
チップを拒む日本人っていうがなかなか理解し難いのと同じく
日本人からすると、一体どのタイミングでいくらをあげればいいのかっていうのは
本当に難しいものです。


インドネシアはといえば、
チップはあります。
でも、アメリカのような、チップ主流国(?)のような感じではない。
レストランなんかではチップは出さない。
私が唯一出した事のあるところは
スパ ですね。
マッサージのあとに、マッサージしてくれたお姉さんに払いました。

あとは、アパートのお手伝いさんに
お水のボトル(19L)を買ってきてもらう時も払いますね。
お水がRp.13,000なんですけど、Rp.7,000をチップで渡して、合計Rp.20,000(200円くらい)払ってます。
お水がRp.13,000なのに対して、Rp.7,000って高くないか
って思うかもしれませんが、色んな人に聞いたところ、相場だそうで。
それに19Lのお水のボトルをお店から買ってくるのもなかなか大変なものなので
そんなもんかと。



まぁ、とにかく
チップというのはそんなにメジャーなもんでもない
と、いいたいところなのですが


なにがチップなのか、実の所、線引きが曖昧なのだ。


道路に、よく、
交通整備の人がいる。
交通整備の人たちは、合流する車線で車の流れを整理していたりする。

バンドン含めインドネシアの主要都市は、
道路が常に渋滞を起こしている にもかかわらず
信号はまだ少ないしで
こういう人たちが必要なのである。
そういう人たちにすれ違いざまに車の中からいくらかチップを渡したりする。
でも、彼らは、実は、そういう会社から雇われた人たちじゃないのだ。
自分たちから率先してやっているだけなので、子供がやっていることも多い。
ただ、これはいたるところでやっているので、あげたりあげなかったり。
道路の整備だけでなく、
大きめの屋台の周りの駐車を管理する人たちも同じ。
『駐車、Rp.2,000.』
と書かれている訳でもないのだが、道路整備とはちがってこちらはみんな2,000.払う。
バイクの場合は1,000.。暗黙の了解というやつだ。

駐車を管理してくれる人たちは、バイクやヘルメットが盗難にあわないように(勝手に)見ててくれている。
頼んでもいないのに、勝手に見ててくれているので、そのサービスに対してこれちらもお金を払うというわけ。


ここで、私はフト思う。
これは、心付け、つまりチップだよな。と。
「ご飯食べてる間、車見といてくれて、ありがとう」
とか
「渋滞を整備してくれて、ありがとう」
という。


私は車を運転しないが
例えば、私が、毎日運転してたとして、毎日同じ道路を使ってるとする。
そして、毎日同じ場所で、同じ道路整備の人に、チップをあげてるとする。
毎日、毎日、欠かさずRp.2,000。
そうすると、道路整備のその人は
私の車を、他の車よりも優先的に合流車線で割り込ませてくれる。
そうなってもおかしくない。

実際、込み合ってる合流地点でチップを先に渡しておくと
割り込ませてくれる。

でも、それは、チップか?
これは……賄賂なんじゃないのか?



私が、9月に
教室で電子手帳が盗まれたんですけど
それを警察署に行って、届け出を出そうと思って、ひとまず学校側に連絡をしたんですよね。
「ちょっと、警察署行ってくるので、あとで連絡があるかもしれませんけど。すいません。」
って話をしたら
国際センターの一番エラい人が一緒についてきてくれたんですよね。
自分で行けます。って断ったんですけど、いいのよいいのよ って。
行く前にご飯まで驕ってくれて
最初は、いい人だな~ って思ってたんですけど
警察署に入る直前になって
「うちの教室で盗まれた事は黙ってて。悪評が立つといけないから」
ってことで、私が自分で紛失したことになって届け出を出す事になったんですよね。
私は、お昼ご飯まで御馳走になってるし
ここまでわざわざ車出して連れてきてもらってるっていうのもあるし
もう、なんにも言えないわけですよ。


そしたら、このご飯って賄賂じゃね?
と思うわけです。


そして、こういう小さな事もそうですけど
ネシア人がやさしくしてくれることの一つの理由として
悪いことがおきた時の口止めになるってことを知っちゃったんです。
しかもそれが、かなりしょっちゅうおきる。
「普段優しくしておけば、困った時に皆助けてくれる」
って日本でもよく言いますけど
この場合、そういう事じゃなくね?
これって、賄賂じゃね?
と、グルグルぐるぐるグルグル頭の中を駆け巡ったわけです。

フランチャイズとマルチ商法のやり方が酷似しているのと同じように。


ただ、こちらは法律で線引きされてるんですけど。ただ、明確ではない。
話が脱線しますが
あたしは2年前に昔の友達からマルチに引きずり込まれそうになったときに
論破するためにちょっと勉強したんですよね。

口コミ商法とマルチ商法の境が曖昧なのと同じように
私の中では今、
チップ

賄賂

優しさ
っていうのが全部壁を失ってる訳です。

ま、正直、今回の例は小さな事ですけど
もっと大きな問題の時には
「それって犯罪じゃん…?」
とぐるんぐるんするわけです。


友達には
「そういう理不尽なこととかを、いちいち気にとめてたら
気持ちが病んじゃうからほっときなよ。」
と言われ
まったくもってその通りだ
と思いましたが
これを心の外に置いておく技術が全くない私には
到底無理でして。

だから私はまた風邪をひきました。
チップと賄賂の違いが分からなくて、風邪をひきました。


自分の体と頭が一体すぎて、しかもやたらと素直すぎて、ちょっと困る。

2014年1月13日月曜日

バパご飯 Makanan Bapak


私はかなり食べるのが好きで
美味しくて驕ってもらえるものは特に、相当食う。

でもインドネシア飯っていうのは
平均的にそんなに美味いもんではなくて
高いお金(一食300円とか)払って食べないと、なんかホント、
食ってて楽しくない。
もう、食う事にあんまり興味がなくなってくるんですよね。


でも、ジョグジャで2週間泊まらせてもらっていた友達のお家では
早期退職したお父さんがいつもご飯を作ってくれていて
これが本当においしかった。
一人でもくもくと料理をするバパ
インドネシアの家庭料理っていうのは
基本的にオカズが1品。それと白飯。
なので、普通に食ってると飽きる飽きる。
この家のパパも基本的に1〜2品しか作らないのですが
なんか美味い。

Bapak バパ(年上の男の人を呼ぶ固有名詞。ぱぱじゃない。ばぱ。)は
学生の時からいつも自炊して、
同じアパートの人たちのご飯を作って上げていたくらいで
料理歴で言ったら普通の主婦と変わらない。
料理してるところずっと見てたけど
とくに変わった調味料も使ってなければ
料理法も普通なんだけど、
下ごしらえとか、炒めるタイミングとか、そういう小さいひとつひとつが年期が入ってる感じがして
劇的に美味いとかじゃないんだけど
家庭料理の美味さ。

バパがもしお店を出したら
あたしゃ毎日食いに行く。
牛肉の佃煮のようなもの

魚のフライ
スープ
ちっさい!
鳥のチューリップ肉の煮付け。
インドネシアで、ジョグジャだけが
日本の煮付けみたいな甘い味付けをする。


またもや
お魚と
ほうれん草のおひたし
タフバソ(タフ=豆腐 バソ=練り物)
という、牛肉のソーセージの入った豆腐と
白菜の乗った麺。
バパがお料理してるとこ
あたしは辛くて食ってないけど
茄子のおひたしと
唐辛子とシラス和え。
唐辛子の量やべぇ
ミーゴレン。
(ミー=麺 ゴレン=揚げ)
今まで食べたミーゴレンの中で一番美味かった。
お魚。
バパはよくお魚を料理してくれるので嬉しい。
豆腐の入った肉じゃがのようなもの。
これは美味かった。



スパゲッティー。
良い意味で、給食の味がした。
甘めの味付けで
子供みたいで私は好き。
この石でできたお皿と
石でできた棒をつかって
唐辛子をすりつぶして
サンバルという辛い調味料を作ります。
あまったサンバルを豆腐に絡めて
食べきる。
食後はかならず
お庭で採れたマンゴーをバパが剥いてくれる。
毎日マンゴー。
今まで、マンゴーの剥き方が
いまいちわからなかったのだけど
毎日見てたので、もう剥けると思う。
インドネシアのおやつというと
ほぼ必ずバナナ。
有名なのがピサンゴレン(バナナ揚げ)で
わたしはバナナが嫌いなので
そんなに食べないのだけど
バパが作ったピサンゴレンは本当に美味しかった。
なので、作り方を教えてもらって
一緒に作ったのだけど
バパが作った方が美味かった。

バパは、
「この前つかったバナナは種類が違うから、味が違うんだよ」
と言っていたけど
わたしは、
バナナじゃなくて、料理の年期が違うんだ!

思いました。
できた。
美味かったけど、やっぱり
バパには勝てない。




あたしがあまりに
毎回おかわりするもんで
帰りの列車で食べるようにと
バパが早起きしてお弁当を作ってくれた。
ナシゴレン。
バパが作るナシゴレンは、インドネシアで一番美味いと思う。

お弁当。
超美味しかった。

おやつにはピサンゴレンも作ってくれて
最後のひとつを
「これで最後かぁ…」としんみりしながら
食べました。

私がピサンゴレンを作った時に
「やっぱバパが作った方が美味しい」
とか我が儘いったもんだから
違う種類のバナナをこの日のために買ってくれて
作ってくれた。

美味しかった。


バパ、毎日おいしいご飯ごちそうさまでした!

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