2014年12月18日木曜日

フリーズ・追

前回の「フリーズ」記事の補足

ちょっと付け足したいことがでてきたので
ちょっと補足。

正直、すごく分かりにくい文章になってしまっています。


前回の記事で、
インドネシア人は分からないことを分からないと言えない。
だから分からなくてもとにかくでたらめにでも答えを提示してくる。
でも、本当に分かっているかどうかの見極め方は簡単で
「フリーズ」
が入るかどうかだ。
ということを書きました。

これを書いて、実はあることに気がつきました。

このフリーズは、彼らにとって一種類しかないということ。

分からない故のフリーズか
悩んでいる故のフリーズか
この二つの違いはこの国にはありません。

前々から、よく思っていたのが
「なぜインドネシア人は答えを急かすのだろう?」
ということがあったのです。
私が悩んでいると、
実際にはただ、どれを選択したようか悩んでいるだけなのに(時間にしてものの5秒程)
「彼らが話したインドネシア語が分かっていない故のフリーズ」
だと勘違いされて英語で説明されたり
そのものの内容を詳細に説明されたりすることがよくあったのです。
それがこれに繋がりました。


例えば、
「今度日本に行くんだけど、成田空港から東京までどうやっていけばいい?」
と、私が聞かれたとします。
この時、私は
「えーっと…」
といいながら、時間やアクセスや言語の壁などを考えて
彼らにとって一番簡単で、しかも安くて、アクセスしやすいものを選び取ろうとします。
コレは別に
「えーっと、電車だと乗り換えが分かりにくいし、リムジンバスは高いし…」
などと声に出していう必要は無いと
私は考えるからです。

その間、私は
知っている知識の中から、取捨選択をしているわけです。
その間、当然、考え事をしているわけなので
一点を見つめ、じっとするわけなのですが
これは、彼らにとって、上の「分からない状態のフリーズ」と区別がつきません。
よって「クロは行き方を知らないんだな」と判断されてしまうのです。

そして厄介なことにこれは、
「早く答えを出せる人間」 = 「優秀な人間」
という答えを導きだします。



以前、ワークショップをしていた時、
ある先生が、助手にこんなことをつぶやいていました。
これは、先生が助手に対して
どの学生が優秀で、どの学生がそうでないかの見極め方を教えていた、
私にはそんな様子に映りました。

「ほら、見てご覧。A君はすぐにアイディアが出てくるけど
B君はアイディアが出てくるまでに大分時間がかかってる。頭の回転が遅くて、全然ディスカッションについて行けていない。」

というようなことを言っていました。

私はこれを隣の席で聞きながら
それはどうだろうか、と思っていました。

というのも、先生がほめたA君は、
確かに話の中心にたっており、どんどんと発言しているし
B君は、あまり発言も多くない。
でも、A君の言っている内容には全くといっていいほど中身がない。
ハリボテなアイディアばかり。(それが悪いというわけではないけども)
でも、ネシア人にとって、優秀な人間というのは
中身がどうであれ、すばやく発言できて、
しょうもないアイディアでも、それを出すためのスピードがあるやつの方なのです。
それは絶対的にそうなのです。

前回の地図の話に戻ると
A①、 正しい地理や、道を尋ねて来た人間に対して親切な道案内をするために
少々時間をかけて正確にそれを導きだそうとする人間と
A②、適当でもいいから、とにかく道を教えてやれ
という二つの人間がいた場合
極端にいうと前者は「のろまでバカな人間」としか見られないのです。
わたしは、前回言った
「適当に道を教えるのは、決して道を知っていると見栄を張っている訳ではなくて
道を聞いて来た人間を思った上での対応だ」
ということが正しいのであれば、
両者ともが、相手の事を思える素晴らしい人だと思うのですが
それが、
前者はのろまで
後者は優秀な人間
というふうにかっきりと二つに分かれてしまいます。


そしてもう1つ、

彼らにとってのあらゆる情報源は
人の話、そしてインターネットからの情報という非常に不確定な情報なのです。
そして、それはある、たった1つの意見だけで、事を「断定」してしまうので
意見のパーセンテージだったり
少数意見を拾い上げたりする事がほとんどないのです。

ということへの補足をさせてほしいのです。


ひとつ、ただひとつの発言だけがフィーチャーされ、
これがあたかも万人の意見であるかのように扱われる。
これを実感した出来事がありました。

ある日、あるネシアの方に日本食レストランに連れて行ってもらった時、
「ここのレストランの日本食は本物(日本)の味ですか?」
ときかれ、
実際に高級とはいえないが日本人が食べても違和感の無い味だったので
「そうですね、日本の味だと思います」
と答えると
「その言葉が重要なんですよ」
と言われた時に、ハッと思った。

私の「そうですね、日本の味だと思います」というのは
今後「この日本食レストランが日本人が認めた本物の味である」ということを
あらゆるところで利用されるな、と直感したのです。
つまり、
この日本食レストランを本物の味たらしめる
確固たるソースが
たった私1人の日本人の発言だけで成り立ってしまう
ということなのです。

なんだかたとえ話がこんな話なだけに
おおげさ〜
と思われるかもしれませんが、
こういうことがあらゆる局面で起こりうるのです。

分かりにくいのでもう少し説明すると
例えば
ミシュランの3つ星レストランがあるとします。
ミシュランの3つ星をとっているレストランであれば
多くの人々が
「行きたい!」「美味しそう!」
と感じるはずです。

それは、レッド・ミシュランの
複数の覆面調査員が抜き打ちで評価するという方法に
歴史があって、そこに信頼性があり
「ここは美味い」
と判断されるからだと思います。
自分よりも料理の知識があり、数々のレストランを食べ歩いて来ている人間たちが
総合評価した上でこのレストランに3つ星を与えているからです。
人々はそこに信頼を置き、そして、あたえられた3つの星に対して
「じゃあ、美味いに違いない」
と思うわけです。

でも、この国では
たった1人の人間、私が、日本人として
「ここ、ちゃんと日本の味がしますね」
と発言したばっかりに
ミシュランガイドに
「日本人が本物と認める味」
と書かれて3つ星を与えられてしまうようなものなのです。

もちろん日本でも世界各国でも同じようなことはたくさん起こっています。
ただその場合、多くは「やらせ」や「釣り」であり
それに乗せられてやってくる客はいるでしょうが
実際に中身が無ければ、そのお店が潰れるのは時間の問題でしょう。
「全米が泣いた。今年一番の名作映画誕生」
とキャッチコピーが打たれた映画が
しょうもない中身であったことがよくあるように。

でもこの国で起こるこれは「やらせ」や「釣り」では終わらないのです。
それが口承文化が深く根付くこの国の怖さであると私は思います。
私が「本物です」と言ったばかりに
このレストランの中身が非常に低レベルのものだとしても
(実際には本当に美味しかったのですが)
それが、私一人の発言のせいで、3つ星たらしめてしまうことが
十二分にあるからです。


これが補足したかった2つのこと。
なんだか分かりにくい文になってしまいましたが
今書いておかねばと思い、書きました。


あとは、
彼らにとって
「周りと同じ」であるということは、
私には理解しがたいほどに極めて、極めて重要なファクターだからです。

に関して、病気の知識とからめての話もしたいのですが
大分エネルギー使って書かないと書けなそうなので
また今度にします。




3 件のコメント:

Grapes さんのコメント...

フリーズが一種類しかないというお話、よーくわかりました。自分も似たような経験をしました。仕事の研修で来ている以上自分の判断一つで行かないことも多く、尋ねられたことに対してどう答えるのがいいかな。。。と思っているうちに言い方を変えて何度も説明してくる彼ら。本当に秒にして数秒にすぎませんにもかかわらず・・・。即答でぽろぽろアイデアが出るのはまぁいいかどうかは置いといて、色んな要因を加味して考え抜いたようなアイデアは殆ど耳にしませんね。なるほど納得です。
仕事上彼らの考え方を日本人的な考え方(生産効率を理論的に考えたり、物事を自分自身で判断させられるようにだったり・・・すみません日本人的というのは適切ではないかもしれません)に寄せないといけない部分もあるので、こういった分析はとても参考になります。特にKaryawanたちは田舎の出身なので、同じ人間といえど基盤といえるような部分がどういう風に違うのか、考えても考えてもなかなか答えの出ない毎日で・・・(笑)
とはいえ私はあと1週間で残念ながら日本に帰るので、結果を形に残すことは難しいですが・・・。
話は全然変わりますが、チカプンドゥン、古いもの好きとしては是非いってみたかったです(ToT)

ぐれーぷ さんのコメント...

すぎませんにもかかわらずって日本語変ですね、すみません。
Grapesと書きましたがぐれーぷです。

Kuro さんのコメント...

ぐれーぷさん、コメントありがとうございます!
伝わらないだろうなこの感じ…と思って書いていたのですが、まさに実体験をした方から共感してもらえて嬉しいです!

>色んな要因を加味して考え抜いたようなアイデアは殆ど耳にしませんね。
これすごくよく分かります。そして複数人いた場合に別々のアイディアが発生した時に、それを取捨選択したり、折衷したりということができないように思います。A君はこうしたい、B君はこうしたい。…じゃあ、どうしよう?で、固まってしまう。だから1人の皆に尊敬されている人間のたったひとつのアイディアをそのまま通してしまうのだと思います。
これと同時に1度出したアイディアや、既に仕上がったものに対してのブラッシュアップなんかもまず見た事ありません。過程や結果や作る意味などが直線上で繋がらず、すべて分離している気がします。
Pasar Seniの時も、来客のための校内の案内地図看板がイベント自体が一日しかないのにも関わらず当日の昼すぎにやっと設置されるのをみて唖然としました。なんのための看板なのかを、設置する人間が理解できていない。どこに設置すれば有効かを事前に吟味しない。せっかくデザインに時間かけても、スポンサーから充分なお金をもらっても、開催前に設置しなければ効果が半減・意味が無くなるということを誰も指摘しないのです。
案内の看板を作ろう・看板を作った・それを当日設置した
この3つが直線上に繋がらないように思うのです。
この要因となるのは色々とあると思いますが、私は学校教育のせいだと思っています。算数の計算式があったとして、教師は答えを教えるだけで、どうして3+2が5になるのかを教えません。どうして道が汚い事が悪いことなのかが分からないから簡単にポイ捨てをするのと同じ事だと思っています。
田舎の出身の人の話がありましたが、田舎の学校は、数学を専攻していた人間が無理矢理国語の先生として勤める事になったりだとか、マッチングのミスが多々発生しているそうで、特に顕著かもしれません。

私の分析が参考になると言って頂けてとても嬉しいです。そして、同じような体験をされているぐれーぷさんの話がきけて私もとても参考になります。ありがとうございます。

チカプンドゥン、是非いらしてください!
まだクリスマスまでは少しだけ時間がありますので是非是非!夜遅くても開いてるお店ありますし、規模も大して大きいものではないので、1時間くらいプラ〜っと寄ってみてはいかがでしょうか。もしいらっしゃるようでしたら時間さえ合えば私ご案内しますのでメールください。

3年ぶりです

ご無沙汰しております、Kuroです。 アーカイブとしてしか機能していないこのサイトですが、 それでもある程度の方が見てくださっているようで有難い限りです。 インドネシア在住時の2年半の間は、ほぼ毎日更新しておりましたが 日本での暮らしに忙殺されて、 書こう書こうと...