2013年10月16日水曜日

犠牲祭2


前回に引き続き、イスラム教の犠牲祭、イドゥル・アドハについて。

早速イドゥル・アドハの写真を載せようせようと思ったのですが、前置きが長くなりすぎたので、パートを分けて「犠牲祭3」の方で写真を載せることにしました。
今回はその長くなりすぎた前置き「と場」の話を。


私は、東京で「と場(家畜などを殺して精肉にする所)」を見学させてもらえる機会があって行った事があります。工業地帯で育ち、動物が肉になっていく過程を見た事がなかった私は「見たい」というよりも「良い機会だから」と思って行きました。見学の前まで「たぶんこれ見たらしばらく肉食えなくなるだろうな」 と思っていたのは私だけではないらしく、皆も同じように思っていたのは後になって分かる事です。結果的に、私たちは、見学後にビーフシチューを食 べに行きました。

なんというか、
見る前よりも肉に対するありがたみっていうのを、前より深く感じたんですよね。肉だけじゃなくて、そこで働いてる人とか、牧場の人とか。「有り難み」っていうと安っぽく聞こえてしまうかもしれませんが、単純に「残さず食べよう」とさらに思うようになったというか。
面白い事に、見た人間全員が同じ感想だったんです。ビーフシチュー食べながら「牛って美味いなぁ」って、牧歌的にしみじみと感じたんです。
あれは今思っても、ものっすごくピュアな感情でした。


見学から帰って来て、この感情を他の人に言葉で説明しても、
「うわぁ〜!「え〜やだ〜!」
とか言われてしまうので、こればかりは見た人しか理解できないと思うのだけど、それを分かった上でなお言葉で説明しようと試みるならば、東京のと場で見 たものは全然「グロさ」とはかけ離れていて、そこに居た職人さんたちの手さばきが本当に見事で、感動するくらいでした。

もちろんその死んで行く様は「かわいそう」なのだけど、それ以上に色んなものにありがたみを感じる。


「いただきます」の言葉の意味が直感的に理解できる。
そんな感じだった。


牛のと殺には、鉄の筒のような道具が使われます。この筒には槍のようなものが入っていて、衝撃が加わるとその槍が出てくる仕組みらしい。それで、牛の頭をガツン!と叩くと、牛が倒れるんです。あの巨体が一瞬でズドーンと倒れる様は圧巻。
動き回る牛の頭に正確に槍を打ち込んで行く。すごいです、あのテクニックは。数ミリずれただけで牛は死ぬことが出来ず暴れてしまうそうです。目の前にどんどん運ばれてくる巨大な牛をその筒一本で仕留める。これは本当に職人技としかいえない。
静物デッサンやった事ある人(特に最近)は分かると思うんですけど、牛骨モチーフの頭に穴が空いてるのは、そういう訳なんですよね。

そこからはもう早くて、ベルトコンベア式に運ばれ、皮を剥ぐ人と、肉を切り分ける人と、内蔵を分ける人とで分かれていて、機械的な美しさと職人さんの技の巧妙さが相まって圧倒されました。

本当に、見て良かったなって思えた経験でした。
今でも強く、そう思います。


そう、そんなわけで
私は、このイドゥル・アドハを
楽しみにしてたんですよね。

でも、結果から言うとね…

貧血で立てなくなりました(笑)。

頭では理解してるんだけど、多分体がついて行ってなかったんでしょう。
血の匂いとかにやられたのかもしれない。
捌かれてくのを見て、自分の中で血の気が引いて行くのが分かり、倒れこそしなかったものの顔面蒼白になって、立っていられなくなった。 


インドネシアのイドゥル・アドハはね……
東京のと場で見たそれとは全然違いました。


東京のと場で見たものは、非常に洗練された鮮やかな技が繰り広げられる、まさに「職人さん」と「機械」の世界だったんだけすけど、ネシアのそれは、ものす ごく生々しさに満ちあふれた、なんていうか、そう……「犠牲祭」なんですよ。「犠牲」にする「祭典」。目的は「捌く事」ではなくて「犠牲にする」ことに重きが置かれている。
そこには私にとって残酷さがあって、なんというか上手く説明できないけれど、食用にするために必要なプロセスではない行程のように思えました。


そんな、イドゥル・アドハで動物たちがと殺されていく様を見ながら強烈に思い出したのはスルバランの「神の仔羊」。それはやはり目の前に写る「犠牲」の姿が色濃かったからなのでしょう。


 『神の仔羊』 フランシスコ・デ・スルバラン

スルバランの絵は、ベラスケスに比べるとなんかパッとしないというか印象に欠けていて、好きな作品あまり無いのですが
この絵だけは私にとって別格。
なんか、神を信じていない私が言っても説得力ないですけど、ものすごい神々しさがあるんですよね。
「ラス・メニーナス」とこの「神の仔羊」が観たくて行って来たプラド美術館では、事前に図録で見た感じよりもなんとなく違和感があった。
「なんかすごい中途半端なサイズだな」と思ってちょっとモヤっとしたんですけど、
この半端な比率というのが自分の中には存在してこなかった比率なので不安を煽るんです。
「従順」という言葉がしっくりくるような、
この明暗の対比がすばらしかった。

この絵を最初にプラド美術館で見たあの
なんとも言えない感情を思い出す。




というわけで訳で、
興味のあるかたは

次で、どうぞ。

2 件のコメント:

eto さんのコメント...

東京のと場を見学した体験のあるKuroさんが体験した犠牲祭。
なんだかいつも以上に今日のテキストは心をつかまれました。

Kuro さんのコメント...

etoさん!コメントありがとうございます!!!

このブログは、なるべく続けていけたらと思っているので
文章が上手くまとまらなくても、たいしたことじゃなくても
アップするようにしています。
文章を何度も直すときもあれば、書き上げてそのままアップしちゃう時もあったりするので
文章が安定しないのですが
頭の中にある、まだ言葉になってないものを言葉にする時に
なんかすごくストンと落ちる言葉を選ぶ事が出来る時があって
そういう時は、自分でも気持ちいいです。
今回の文章は、自分でもけっこう気持ちのいい言葉でかけたと思っていて
そういうのがetoさんにちょっと伝わったのかな
と思ったりして、すごく嬉しいです。

ありがたいお言葉、本当にありがとうございました。

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